稲吉紘実の美「漆蒔絵とは」
漆とは、ウルシノキ(Toxicodendron
vernicifluum)の幹から採取された樹液を精製して
作られた塗料である。東アジアにのみ分布する
植物であるウルシノキについて、9000年前(縄文時代)
にはすでに人類が植栽し、樹液を採取し、塗料や
接着剤として広く活用していたことが明らかになって
いる。生活をより便利にするための用途としては
当然ながら、神や信仰にまつわる神聖で貴重な道具・
建築にも古くから数多く用いられている。神への
供物を奉げる高坏や装飾品には、しばしば黒漆や朱漆
(赤顔料である辰砂や弁柄を混合した色漆)が
塗られた。
漆は、一度硬化すると水にも有機溶剤にも溶けず、
酸やアルカリにも侵されない。熱にも強い。このような
強靭な塗料は、自然素材では他に存在しない。
紫外線によって炭化水素に分解されるが、紫外線が
当たらない条件下では永遠に状態が保たれる。
土に埋もれた数千年以上前の漆が、ほとんど当時の
ままの状態で出土したこともある。そう考えると、
漆を塗ることで物は永遠の命を得るともいえるだろう。
漆の特性である強さと神聖さは、平安時代に大陸
から伝わった蒔絵や螺鈿といった装飾技術の成熟も相
まって、平安京内の漆部で作られた貴重で絢爛な
調度品や武具へと受け継がれていく。
そういった歴史を踏まえるからこそ、Prof. 稲吉
紘実の作品には漆蒔絵の世界観がふさわしい。まず
素地となる木胎を削り出して形状を作り、漆を
塗り重ねていく。作品によっては下地に薄い和紙や麻布
を張り、漆と砥粉を混合した錆を付けて形状を
整える。それらは京塗48工程とも云われるほど、幾度も
幾度も繰り返される。漆蒔絵とはその最終盤に
施される、金銀や鮑などの貝殻を用いる非常に高度な・
そして歴史的にも由緒を持つ装飾技術だからだ。
また、螺鈿では素材として、古代では貨幣としても
流通してきたような鮑・夜光貝・蝶貝などの貴重な素材
を使用する。当然ながら、自然の産物である貝の
表情は一枚として同じではない。Prof. 稲吉の作品では、
その中でもそれぞれの作品にふさわしい表情の
貝を数百枚の中から厳選してきた。永遠の生命をもつ
作品にふさわしい貝を選ぶ作業は、私にとって
とても貴重で楽しい時間でもある。漆の黒に映える金・
銀と螺鈿の輝きは、工程を重ねるなかで少しずつ
神聖さを帯びはじめ、作り手にさえ神々しさが伝わり
はじめる。漆蒔絵とは貴重な材料を最高の
手仕事で加工する、工芸の中でも特別な技術であると
いえるだろう。
16〜17世紀の大航海時代には多くの交易船が
ヨーロッパと日本を往来し、京都の漆蒔絵製品も大量に
輸出された。ヨーロッパ各国の王侯諸侯の所蔵品
には漆蒔絵製品が多数ある。特にマリアテレジア、マリー
アントワネットは漆蒔絵の愛好者として有名だ。
それは、文化圏・時代を軽々と飛び越えて、人類の感性
に普遍的に届くような美を、漆蒔絵がずっと湛えて
いるからに違いない。千年以上前から日本独自の宮廷
文化を支える工芸技術を確立した京都では、今
なおその手仕事と美意識が脈々と受け継がれている
のだ。その一つの最先端として、漆蒔絵を纏った
稲吉紘実の美が在ると、私は確信する。
株式会社 佐藤喜代松商店
代表取締役社長
佐藤貴彦


